言語以前の場所で。
笙野頼子『未闘病記ー膠原病、「混合性結合組織病」の』を読む。
私の名「祥子」は本当は「笙子」になる筈だったので(昭和40年の時点では当用漢字に無かったらしい)、何だか勝手な親近感?を感じてしまう。
笙野頼子の文章を読んでいると自分が「生きていること」がわかる、よ。生きる根本の何か動機のようなもの、理由とかそういうことではない、もっと原始的で言語以前のなにか、それを純化=purifyしてくれる。
文学というものが人間に及ぼす作用の中で、というか、してくれることの中で最も。。。 凄いことなんじゃなかろうか、それって?一人の人間が生きている/生きてゆく動機を純化すること。言語というものの力で、言語以前の場所で。
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