文化・芸術

2017年4月14日 (金)

しょうこのリスニング・ダイアリー。『ラフマニノフ自作自演集』




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『ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ』を聴いていると、もうジャズやロックンロールのほんの一歩手前というか、クラシックを聴いているという感じがしない。分厚いハード・ブギーとかエキセントリックなハード・バップ、みたいな感じさえする。



バッハを聴いていても異常にジャズを感じることがあるけれど、ラフマニノフの“ジャズ感”はもう殆どロックである。



それにしても何と高貴な美しいタッチ、何と沈鬱な曲であり音色なのか。何だか湖の水が蒼く鈍く光るような音。気持ちがその湖に沈んでいってしまうので、あまり長時間聴きたくないってのも本音だ。
~35分経過。~
ア~もう限界!こんなピアノを聴いていたら心理療法やセラピーでも受けたくなってしまう。「近代的自我」という病、ってフレーズが浮かんできて仕方無い。



ラフマニノフ、もの凄い天才だけれど私には合わなかった。マーラーとかブルックナーがダメであるように、ラフマニノフもまた♪駄目な私ネ~~♪なのであった。やはりしんそこ魅きつけられるのはバッハ師匠やアマデさん(モーツァルトのことデス)=バロックから古典派、ロマン派はショパン様までなのであった。


近代以前の音楽は純粋に「音楽」そのものに聴こえる。自我や自意識ってものが多量に混入していない。



ラフマニノフもマーラーもブルックナーも、音に混入した自意識の割合が大き過ぎ過剰過ぎる、というふうに聴こえる(いや凄い人たちなんですけどネ、音楽はホラ、趣味趣味なものだから。。。)


ともすれば「音楽」より「俺の苦悩」とか「俺の葛藤」とかが前面に出てきてうるさい(と感じる)。だから苦手。って話が終わっちゃった!


アマデさんは「俺の苦悩」も「俺の葛藤」もあらわれる前に音にしてしまう、音に「移し変え」たり音にしようと「意図したり考え」たりする時間が皆無。葛藤も苦悩も、舞い上がるような高揚や至福のように表現してしまう。生と死が、歓喜と絶望がひとつのものになってしまう。



(35分だけど)ラフマニノフを聴けば聴くほどアマデさんが恋しくなって戻って来てしまう。
ラフマニノフの音はこの上なく美しい、が、恐い。



モーツァルトも美し過ぎて怖いがあの恐さとなにか根本的にちがう。モーツァルトは聴き手の心を薔薇色の天空に誘うが、ラフマニノフが誘うのは蒼く鈍く光る湖の底なのだ。

2016年10月13日 (木)

しょうこのリスニング・ダイアリー。

Bill Evans『 Live at The Top Of The Gate』

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ビル・エヴァンスのピアノは美しい。ほんの2-3小節聴いただけで、この人が熟練したクラシックのピアニストでもあることがわかる。白人である彼が、その無駄のない美しいタッチでジャズを弾くってこと自体、矛盾を孕んでいる。


彼のピアノが一見お洒落、とかハイブラウに聴こえるとしたらこのタッチの美しさのせいだと思うけれど、あまりに鋭い音の切っ先がこちらを目指して休みなく飛んでくるので、とてもお洒落だなんて呼ぶ気にはならない。



美しいことと人を落ち着かせたり心を和ませたりすることは必ずしも同義じゃない。この人の演奏は根底に矛盾を抱え込んでいるために、聴くものを落ち着かせないし間違っても和ませたりしない。


ただ、言葉をうしなうほどに美しい。不吉なほどに、という言い方をしてもいいと思う。矛盾とは美しいものなのだ、危うく壊れそうなのにたしかで靭いのだ。


好きかと言われたら考え込んでしまう。ビル・エヴァンスのピアノは好きとか嫌いとか言えるようなものなのか。好き、嫌いと言えるのは相手に何らかの弱さや欠点を見出すからだ。そこに共感すれば好きになり、反発すれば嫌いになる。



共感や反発なんて言葉の最も遠くにあるもの、それがビル・エヴァンスのピアノだから、何度繰り返して聴いても私はその演奏が好きなのかどうかわからない。ただ、美しさに言葉を失ってしまう。考えずにはいられなくなる。自分はこの演奏が好きなのか、そうじゃないのか。好きとは、美しいとは一体どんなことなのか、と。

2016年5月 8日 (日)

我がココロの5冊。

20代の頃からずっと読んでるココロの五冊


は何ですか?
私(スズキ)は



5 津軽/太宰治

4 父の詫び状/向田邦子

3冬の運動会/向田邦子

2 二十歳の原点/高野悦子


1 早春スケッチブック/山田太一


が、永遠のベスト5なのです。並べてみると今の自分に物凄~く影響していることがわかります。
20代の頃の読書って人生そのもの、ココロの在りかたにまで影響してしまう大事なものなんですネ。


御多分に漏れず若い時代は太宰に夢中だったけれど、39から40になる時にぴたっ、と読まなくなってしまいました。
39を過ぎても人生ってまだあったんだ。。。とココロから驚き理解したときに治る、ハマった時に病が深ければ深いほど「抜けた」ときにはケロッとしてしまう。。。のも「太宰病」の非常~に興味深く特殊なところです。



しかし、というかだからこそ、永遠の青春文学で在りつづけ読まれつづけるんですよネ。もし我がココロの大宰ベスト5、を選ぶなら


善蔵を思う
皮膚と心
きりぎりす
津軽
斜陽
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あと『お伽草子』『東京八景』も大好き。『メリイクリスマス』も忘れ難い。。。ってヤッパ好きなんじゃん!

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最近『早春スケッチブック』のDVDボックスというものが在ることを知り↑ショックを受けております、
永年シナリオを読んで反芻しながら泣いたり感動したりしていたのに、映像でもう一度
観ることができるなんて!
でもフクザツ、欲しいような欲しくないような。。。記憶のなかで作り上げた
映像と違ってたらどうしよう、ナンテ、こういうのを要らぬ心配、と云うのですよネ(笑)。

2016年4月13日 (水)

最も美(かな)しい曲。




『ピアノ協奏曲第21番K.467』の第二楽章・アンダンテを練習しています。いままで出逢った最も美しい曲。




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このF-DurからC-Durに転調するところ、この6小節があったら何も要らない。アマデさんの描いたアルペジオのなかに溶けてしまいたい。波紋がどこまでもどこまでもひろがって、水は空の色を映して虹のような、真珠のような色に染まってゆく。。永遠にここに居たいと思う。


ばら色の雲のうえでモーツァルトと連弾することが出来るなら他に何も望まない。。。と言ったフリードリヒ・グルダさんの気持ちが超・超ワカル。


ブルーノ・ワルターさんも「モーツァルトの音楽がこんなにも自分を浄福で満たしてくれることを、若い頃は全く理解していなかった。。。」
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グルダさんも「若い時はバッハとベートーヴェンが最も大事で、モーツァルトは“演奏会に遅れて来た人が席に着くまで演奏する音楽”のように思っていた(←ヒドイ)。年を取れば取るほど自分の間違いに気づいた」。。。皆んな打ち合わせしたかのように同じことを言う。


こんな凄い人たちと並べては厚かまし過ぎるけど、私も49になるまで「モーツァルトはたしかに凄いけど、軽やかでポップ過ぎて、やっぱりバッハ師匠の方が凄い!」と思っていた。

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二人を比べることのあまりの愚かさに気づいていなかったし、その軽やかさや親しみやすさがどんなに深く、どんなに巨きなものから発しているか、にまったく気づいていなかった。

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そしてゲエテはこう言ったそうだ、


「はっきり言って了えば、悪魔が人間どもをからかう為に発明した音楽である。」


さすが文豪。。。ワカッテルネ~!!

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2016年2月 8日 (月)

「ーけれどもわたくしは、自己主張や、自己表現ではない絵を描きたい、気に入った植物や美しいと思う風景があれば、ただそれに近づくためだけに絵を描きたいと思うようになったのです。」


堀文子先生の言葉に心底痺れる。本当にそう思う。自己表現なんてど~だって良い。ただ音楽そのものに近づきたい。



「ー素晴らしい仕事をしてきた大先輩の為にもよ、世の中動かしてんのは少数派の最高の奴等だよ、カンチガイすんなこの野郎、大先輩の巨匠たちの為にも俺たちザコは、ザコは頑張んなきゃいけないんだよ、ザコが100パーセント出しきったって巨匠の1パーセントにも及ばない、だからってやらずにはいられね~だろ!憧れてんだよ!!やらずにはいられねェだろう!!」

(高橋敏幸『人生への挑戦』より抜粋。)


ーその通り過ぎて涙が出るー!憧れてんだよ!やらずにはいられねぇ!!


表現は違えど、私には堀文子先生も高橋敏幸さんも本質的に同じことを言っているように思えてならない。

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2016年1月28日 (木)

『成瀬巳喜男 映画の面影』

「ーー成瀬さんと私の間には誰も立ち入ることが出来ない。成瀬さんと私にしかわからない。。。変な意味じゃなくてね。

だから成瀬さんが死んだ時、あぁ、私も終わった、私という女優が終わった、と思った」


「言い忘れたことがある。成瀬さんが死んだ時、私という女優も終わったと思った、と言ったね。それは、もう仕事にも映画界にも一切、きれいさっぱり未練がなくなった。つまり。。。殉死だね」


(斎藤明美『高峰秀子の流儀』/『高峰秀子との仕事』より。)


成瀬巳喜男監督を語る女優・高峰秀子の言葉を想い出すたび胸を衝かれる。何度も何度も反芻したので心に刻まれてしまった。


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先日の演奏会のとき川本三郎さんの著書『成瀬巳喜男 映画の面影』を贈ってくださった方がいらして、9日の夜むさぼるように読んでしまいました。今も読み返しています。どうも有り難うございます!


成瀬監督の画面は美しい。「美しいもの」を撮っていないのに美しいとはどういうことなんだろう。


デコたん(高峰秀子)が演じた役だって考えてみれば幸せな女は一人も居ない。それでも喩えようもなく気品があり美しい。


川本三郎さんが書かれているように「貧乏ギャグ」とお金の話がしょっちゅう出てくる。下町の狭い路地、淀んだ川にかかる橋。古いアパートにしもた家、何処からともなく現れるチンドン屋。


それなのに映画は独特のリズムとスピードを持ち、洒脱、と言っていいくらいに洗練されて美しい余韻を残す。どうしてなのか。


それを考えてゆくとデコたんが生涯でただひとり、殉死、という言葉を捧げた意味がハッキリと解ってくるのだ。

2015年11月26日 (木)

十一月二十二日、近松忌。2

ことに『女殺油地獄』の解釈には虚を突かれる思いがした。

ーー「わたしは(放蕩の限りを尽くし、最後に油屋のお吉を殺す主人公の)与兵衛アンちゃんが一番人間らしく思え、与兵衛の目で他の人間の眺めれば、あまりのウソらしさに腹立ちさえ覚える。」

ーー「誰ひとり、与兵衛の内部から外側を見ない。だれひとり与兵衛の視線で家族を見ている者はいない。これでは与兵衛という青年に残されるのは暴力のほかないではないか。」

ーー「与兵衛をわたしが「異形」と感じるのは、この男に人間のもつ正体不明の暴力を見るからである。」

これは明らかに現代に通じるーー現代そのものの問題ではないか。家族、暴力、コミュニケーションの不在、危うい精神のバランス。何年か前に起きた若い男性による犯罪のドキュメントを並行して読んでいた私は、そのテーマの深みにぞくっとするものを感じた。近松は元禄の時代に何を視ていたのだろうか。

「天才」とはあるヴィジョンを「視てしまう」人だちだと感じる。かれらはいつの時代に何処に生まれても、時代を超えことばを越えた地下水脈のような「なにか」と響きあい通じあってしまう。

ーー「『油地獄』という「語りもの」は物語でなく、確実に「劇」を志向している。近松の浄瑠璃は「語りもの」から逸脱し、それがもついわゆる近代の「劇」が「段」構成の人形芝居に入りきらなかった。その時、もて余された“文学”が、後世の“読者”に読まれて楽しまれるのだった。

ーー「劇作家」とすれば、これは不幸である。ただ、六十代のおわりに、尚もこの種の不幸をもち得た浄瑠璃作家を、驚いて仰ぎ見る。」 (富岡多恵子『近松浄瑠璃私考』より。)

 

劇ーードラマが浄瑠璃を逸脱し文学に限りなく接近する瞬間。近松を「国文学」として「読んで」しまう現代の私は、その変幻を逆に辿って暗闇のなかで演じられた人形芝居を視たい、「ウタ」と「カタリ」の発現する瞬間に立ち逢いたい欲望を抑えられない。最早それが不可能だと解っていても。

2015年11月25日 (水)

十一月二十二日、近松忌。1

近松の浄瑠璃を原文で(注釈と首っ引きで)去年、初めて読んだ。

日本語の響きやリズムをもっと知りたい、感じたいと思った。浅草の木馬亭で生の浪曲を聴いて圧倒され涙が出そうになった。自分の想像力もまだ捨てたもんではない、なんて思った。

 

此の世の名残り、夜もなごり。死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。ひと足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。 (曽根崎心中ーおはつ徳兵衛道行)

有名な『曽根崎心中』の道行の場面、何度読んでも口に出してもこのリズムに眩惑される。自分がそこに居るかのような気分になる。耳で聞き、声に出す「ことば」の喚起力、暗示力を想う。

 

近松の時代にはこれがどう語られていたか、義太夫の「フシ」が現存していないーー残っていないというのは「和歌や書は残っても歌=声のわざは残らない」という後白河院の言葉を嫌でも思い出させる。

 

録音技術というものを得たことには幸福と不幸がある。その発達につれてこぼれ落ちてゆくものがある。歌そのもの、ことばそのものの生命感ーー簡略化、効率化、合理化を拒む何かーー無理、無駄、無秩序、何でもいいけれどコントロールされ管理された場所からはみ出すものに年々触れられなくなってゆく実感があった。

恋して死んでゆく主人公たちはどこか身近で愛おしい。現代の感覚からすれば愚か、不幸なのだろうが、恋こそ無秩序の極致でありだからこそ恋の為に死ぬ主人公たちを語り、語らせる近松の言葉は生命感に溢れて異様に美しい。

富岡多恵子の『近松浄瑠璃私考』を読んで、岩波書店『日本文学体系49~近松浄瑠璃集』の解説とのちがいに何やら痛快な想いをした。男性の論者が自分と近松の出逢い、近松における「詩」と「ロマン」について断定的で思い入れたっぷりなのに対し、富岡多恵子は近松の「ウタ」と「カタリ」の本質についてねめ廻すように執拗に「口説き」、かえす刀でその世界に鋭くふかく入り込んでゆく。

 

2015年10月 8日 (木)

9月23日/旧華頂宮邸 2。

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            チェンバロ文化講座 講師 久保田彰先生(久保田チェンバロ工房)

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チェンバロの歴史や特性、キルンベルガー第三調律法と平均律のちがい。。。

ユーモアをまじえつつ大変興味深いお話をしてくださいました。

『「音階」というものを階段にたとえると、平均律は均一につくられた工業製品のような階段、キルンベルガー第三調律法をふくむ古典調律は裏の神社の階段。。。』

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あまりの絶妙な喩えに笑ってしまうスズキ。




2015年5月30日 (土)

まだまだお聖さん三昧。

未読だった『不機嫌な恋人』『愛の幻滅』『九時まで待って』読了。

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主人公たちのじぶんの恋と恋人への、何と優しい、そして容赦のない幻滅。


恋はする時は本当にしてしまうもの、どんなに気をつけようが無防備だろうが、鎧を着ようが裸だろうが、恋に落ちるときは「堕ちさせられてしまう」、その相手にだか、運命にだか、何だかよくわからないものに。


時を選べない。相手を選べない。選べるくらいならもうちょっとどうにかなる。「落ちて」しまったらもうどう仕様も無い、「選べる」ものなんてなにひとつない。


微に入り細にうがって「恋」の心理を描きながら、じつは田辺聖子は「時」を描いている、その無情を、とどまらない残酷さを、はかなく、だからこそ「いま」ここで輝くものを。


甘くない。。。本当に甘くない、恋も人生も。


だけど人生は甘美だ、喩えようもなく心を甘くあまく蕩かす恋のために。登場人物たちの操るちょっぴりユーモラスな大阪弁のせいかしら?そう信じさせられてしまうところが。。。まさに「お聖さんマジック」。

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