文化・芸術

2019年10月11日 (金)

良いこと書いてる!

 

http://eachandeveryday.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-6ba6.html

「西暦3010年のバッハ。」

http://eachandeveryday.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-4f1b.html

「小林秀雄先生に訊いてみる。1。」

http://eachandeveryday.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-1782.html

「小林秀雄先生に訊いてみる。2。」

http://eachandeveryday.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-78d0.html

「小林秀雄先生に訊いてみる。3。」

http://eachandeveryday.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-a6dd.html

「う・れ・し・い♪。」

 

2015年や2016年の記事ですが、

読み返してみたら結構良いこと書いてんじゃん!と思いました(笑)。

で、今あらためて思うのは、

バッハ師匠もアマデさん(モーツァルト)も、

神様に挑戦状叩き付けたんだな、って事です。

で、敗れた。裁かれました。

バッハ師匠とアマデさん、両方の暮らした場所(あとザルツブルクに行けば完全制覇だ‼️)にゆき、

住んでいた場所、活躍した場所、お墓にゆきました。

音楽もたくさん聴きました。

ある時は畏れを感じ、

ある時は喜びに満ち溢れ、

ある時は号泣しました(笑)。

(自分に出来る狭〜い範囲ですが)スコアを読み、演奏しました。

そしてわかった(勝手に)ことがそれです。

神様は愛し、信じるもの。神様のご意思のために働くのが人間の使命なので、

挑戦状叩きつける。。。こりゃ〜いけません。そら裁かれます。

私などがあらためて言う迄も無い、至極当たり前のことではありますが、

この方たちは触れることも出来ない音楽の天才なので(ジャンルはどうあれ、

音楽をやる人間はこの二人について多くを識って、

真の天才ってこういうものか、と

とことん打ちのめされておくべきだと思うのです。)

神様を純粋に賛美する音楽をひたすら創造していれば肉体的に敗れることはなかった、

寧ろ栄えて永生きしたでしょう。

でも、天才過ぎたために神様に挑戦してしまった。

反逆してしまった。

悪魔の側に一歩、歩を進めてしまった。

神様は悲しまれ、お怒りになりました。

そりゃそうでしょう、だって音楽は神様のものですから。

神は言(ことば)であり、言(ことば)は神であったからこそ、

それは「音」になり音楽、が出来たのですから。

彼らが天才であればある程、神の怒りは激しく燃え盛った筈です。

そのように彼らをお創りになり、使命を与えたのは神なのですから。

神様のなさることは時として容赦が在りません。

彼らから健康を奪い、経済的基盤を奪いました。

特別に深く愛されたからこそ、特別に大きく裁かれたーー音楽とは時に恐ろしいものなのです。

しかし、いいえ、だからこそ、

神様は彼らから音楽だけは奪いませんでした。

彼らは最後の最後まで書き、創造した、命の尽きる瞬間まで。

神はそれを解っておられました。

彼らの挑戦は退けられ、肉体は滅ぼされ、

しかしその霊性は、

永遠の生命=音楽として残りました。

神様のなさることの人智を超えた的確さ、

恐ろしさと厳しさ、

そして人間への、人類への深い愛と慈しみが、

二人の天才の生涯と音楽を通じて、視えてくるような気がするのです。

 

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あっ!神様のことはwordpressに書くつもりだったのにこっちに書いちゃった!

回復しないナ〜wordpress。やっぱり編集画面に行けません。

あらっ?何かマズイこと書いたかしらん😛⁉️

回復しなかった時のことを考えて、amebaのアカウントを取ってみました。

アメブロデビュー(笑)も間近か?

 

まあいいや、消すのもナニなのでこのまま残します😊❣️

 

 

 

 

 

 

 

2019年4月11日 (木)

西暦3010年のバッハ。

J・S・バッハ×グレン・グールド

『リトル・バッハ・ブック』
『ゴールドベルク変奏曲』(新録)

J・S・Bach×Glenn Gould

『THE LITTLE BACH BOOK』

『GOLDBERG VARIATIONS』(’81)

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グールドの弾くバッハはまるで「未来から聴こえてくる音」みたいだ。バッハの最晩年の傑作を'81年新たな解釈で再録音した、なんてデータも、そこから既に30年以上が経過しているなんて過去→現在の概念もすべて吹っ飛んでしまう。


これは3010年から聴こえてくる音なんじゃないかと思う。バッハは書き遺したスコアによって、グールドは「録音」という記録の技術によってかるがると時間を超えてしまった。


20世紀に生まれた録音技術が50年をかけて爛熟期を迎え、望みうる最高の達成をみせた1980年代初頭に向かってグールドが50年の人生を生きたこと、バッハがこの世で命を全うしてから200年後にグールドという表現者を得たことは偶然と思えない。100年とか200年なんてチョロい、1000年、2000年の単位でなきゃ彼らが視ていたもの、視ようとしていたものには届かないという気がする。


グールドのバッハ表現が真にすぐれているのはやはりバッハの音楽のもつ

数理性、順理性への理解と洞察、探求、それを完全に身体化していたこと、に尽きる気がする。

 

バッハの音楽は神の数式だ、限りがあるからこそ普遍である生命というもの、それが生きるための方舟であり揺籃でもある時間、そして自然の法則を解き明かすための。

 

 

音楽家と音楽家の時間を超えた出逢い。それはすべての人類にとってのギフトになった。


グールドはバッハの数式を解き明かしてみせた、この世での自分の生命と、生きた時間を引き換えにして。そんなふうに聴こえてならない。


最後のアリアでいつも私はとめどなく泣いてしまう。哀しいからではなく音楽=生命がはなつ光、それが「ここに在ること」にただ、打たれるからだ。

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2018年8月15日 (水)

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2018年8月 9日 (木)

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2018年1月 9日 (火)

「俵星玄蕃」とセダカの「ポップ」。

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「おお、蕎麦屋かーッ!!」

お正月にテレビで三波春夫先生(面識あるワケ無いのにど~しても《先生》と呼びたくなってしまう人がいる、小林秀雄とか森茉莉とか堀文子とか)の『元禄名槍譜・俵星玄蕃』を初めてフルコーラス聴いて凄過ぎて圧倒された。あの身体がカーッ、となってドキドキしてくる感じ。。。まるでロックンロールじゃないか!と思った。


要は「声」と「リズム」なのだ、この興奮の震源地は。。。浪曲師から出発して「浪曲」と「歌謡」を結び付けてしまった、ということで言えば廣澤寅造よりある意味凄い。伝統文化とあらたな文化を接続させた、声とリズムという原始的/構造的な力で。


浪曲のなかでも歌謡の世界でも「迎合、異端」と言われることを恐れない、ところがまさにロックンロールだと私は思う。三波春夫先生のことを考えているとニール・セダカが浮かんで来て仕方無い。

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非常に知的なソングライターにして、あの押し出しの強い華やかなヴォーカル。ジャズのコード進行をベースに'60年代のポップスにとって決定的な「アルドン転調」のスタイルを作り上げた豊かな学術性は「オールディーズ」の「歌手」、という名に隠れてともすれば見えなくなりそうだ。

そうそう、フィル・スペクターの評伝にも「ニール・セダカの健全で退屈な青春ポップス」みたいな描写があってがっかりしてしまう。アルドン・ミュージック時代の曲はどれもメロディックでリズミック、そして夢見るようにスウィート。後追い世代の私にとっては退屈どころか「ポップ」ってこういうことか!!と目を見張らされるような発見のある曲ばかりだ(この評伝じたいはすごく興味深い本であるが)。


ニール・セダカのどうにもこうにも華のあり過ぎる声と歌唱力は三波春夫先生のそれとダブる。世間に広く流布された「流行歌手」という仮面の向こうの、きわめて上質な知性と音楽性も。

2017年11月14日 (火)

近松浄瑠璃初体験。

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先日、国立劇場に文楽「冥途の飛脚」を観に行ってきました。


近松の作品は歌舞伎でも芝居でもなく人形浄瑠璃で観なければだめ、という先人の言葉に従って、近松浄瑠璃初体験。美しい、本当に美しい世界に言葉を失ってしまいました。


自らの作劇術を「虚でもなく実でもなし」と語ったという近松。義太夫と三味線で語られる「物語」と、物語を演じる「人形」、人形を遣う「遣い手」という重層的な構造のうえに成り立つ世界。


あらゆる受動と能動が交錯するその世界の香気と妖気に、観るものはいつしか釘付けになってしまうのです。


飛脚屋の忠兵衛が見世女郎の梅川を請け出すために、公用のお金の「封印切り」をしてしまう場面はことに有名です。自分のために罪を犯した忠兵衛に「この世で添える限り」、

つまり死の瞬間まで寄り添おうとする梅川、忠兵衛の故郷の新口村に逃れてゆくふたり、早晩捕えられることが解っている恋人たちに降りかかる真っ白な雪。。。



打算を駆使して「合理的に生きる」のが所謂「利口な処世」なのだとしたら、恋に命を、死を懸ける近松の主人公たちはそこから何と遠く隔たっていることか。

その遠さを、隔たりを人間の愚かさではなく尊厳として、無上の美しさとして謳った近松は、劇作家であるより前にひとりの詩人であったのだと思います。



人形浄瑠璃で観なければだめ、というのは、近松の「詩」の本質がそこに凝縮されており、またそこでしか完全に表現され得ないという意味であったのか!と、

言葉の中身を痛いほど実感した気がしたのでした。


しかし「冥途の飛脚」って。。。何つぅかっけェタイトルなのでしょう。その言語感覚のシャープさとイマジネーションの鮮やかさは現代に余裕で通用するどころか、

この人の視線、ヴィジョンというものは千年先を疾走(はし)っていた、と鳥肌が立つような思いがするのです。

(去年書いてアップするのを忘れていた記事↑なのですが、あ、近松忌1週間前だ!

と気がついてアップしました。なんかこう近松の日本語が在る限り、日本って国は大丈夫なんじゃないかって気がします。)

2017年4月14日 (金)

しょうこのリスニング・ダイアリー。『ラフマニノフ自作自演集』




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『ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ』を聴いていると、もうジャズやロックンロールのほんの一歩手前というか、クラシックを聴いているという感じがしない。分厚いハード・ブギーとかエキセントリックなハード・バップ、みたいな感じさえする。



バッハを聴いていても異常にジャズを感じることがあるけれど、ラフマニノフの“ジャズ感”はもう殆どロックである。



それにしても何と高貴な美しいタッチ、何と沈鬱な曲であり音色なのか。何だか湖の水が蒼く鈍く光るような音。気持ちがその湖に沈んでいってしまうので、あまり長時間聴きたくないってのも本音だ。
~35分経過。~
ア~もう限界!こんなピアノを聴いていたら心理療法やセラピーでも受けたくなってしまう。「近代的自我」という病、ってフレーズが浮かんできて仕方無い。



ラフマニノフ、もの凄い天才だけれど私には合わなかった。マーラーとかブルックナーがダメであるように、ラフマニノフもまた♪駄目な私ネ~~♪なのであった。やはりしんそこ魅きつけられるのはバッハ師匠やアマデさん(モーツァルトのことデス)=バロックから古典派、ロマン派はショパン様までなのであった。


近代以前の音楽は純粋に「音楽」そのものに聴こえる。自我や自意識ってものが多量に混入していない。



ラフマニノフもマーラーもブルックナーも、音に混入した自意識の割合が大き過ぎ過剰過ぎる、というふうに聴こえる(いや凄い人たちなんですけどネ、音楽はホラ、趣味趣味なものだから。。。)


ともすれば「音楽」より「俺の苦悩」とか「俺の葛藤」とかが前面に出てきてうるさい(と感じる)。だから苦手。って話が終わっちゃった!


アマデさんは「俺の苦悩」も「俺の葛藤」もあらわれる前に音にしてしまう、音に「移し変え」たり音にしようと「意図したり考え」たりする時間が皆無。葛藤も苦悩も、舞い上がるような高揚や至福のように表現してしまう。生と死が、歓喜と絶望がひとつのものになってしまう。



(35分だけど)ラフマニノフを聴けば聴くほどアマデさんが恋しくなって戻って来てしまう。
ラフマニノフの音はこの上なく美しい、が、恐い。



モーツァルトも美し過ぎて怖いがあの恐さとなにか根本的にちがう。モーツァルトは聴き手の心を薔薇色の天空に誘うが、ラフマニノフが誘うのは蒼く鈍く光る湖の底なのだ。

2016年10月13日 (木)

しょうこのリスニング・ダイアリー。

Bill Evans『 Live at The Top Of The Gate』

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ビル・エヴァンスのピアノは美しい。ほんの2-3小節聴いただけで、この人が熟練したクラシックのピアニストでもあることがわかる。白人である彼が、その無駄のない美しいタッチでジャズを弾くってこと自体、矛盾を孕んでいる。


彼のピアノが一見お洒落、とかハイブラウに聴こえるとしたらこのタッチの美しさのせいだと思うけれど、あまりに鋭い音の切っ先がこちらを目指して休みなく飛んでくるので、とてもお洒落だなんて呼ぶ気にはならない。



美しいことと人を落ち着かせたり心を和ませたりすることは必ずしも同義じゃない。この人の演奏は根底に矛盾を抱え込んでいるために、聴くものを落ち着かせないし間違っても和ませたりしない。


ただ、言葉をうしなうほどに美しい。不吉なほどに、という言い方をしてもいいと思う。矛盾とは美しいものなのだ、危うく壊れそうなのにたしかで靭いのだ。


好きかと言われたら考え込んでしまう。ビル・エヴァンスのピアノは好きとか嫌いとか言えるようなものなのか。好き、嫌いと言えるのは相手に何らかの弱さや欠点を見出すからだ。そこに共感すれば好きになり、反発すれば嫌いになる。



共感や反発なんて言葉の最も遠くにあるもの、それがビル・エヴァンスのピアノだから、何度繰り返して聴いても私はその演奏が好きなのかどうかわからない。ただ、美しさに言葉を失ってしまう。考えずにはいられなくなる。自分はこの演奏が好きなのか、そうじゃないのか。好きとは、美しいとは一体どんなことなのか、と。

2016年5月 8日 (日)

我がココロの5冊。

20代の頃からずっと読んでるココロの五冊


は何ですか?
私(スズキ)は



5 津軽/太宰治

4 父の詫び状/向田邦子

3冬の運動会/向田邦子

2 二十歳の原点/高野悦子


1 早春スケッチブック/山田太一


が、永遠のベスト5なのです。並べてみると今の自分に物凄~く影響していることがわかります。
20代の頃の読書って人生そのもの、ココロの在りかたにまで影響してしまう大事なものなんですネ。


御多分に漏れず若い時代は太宰に夢中だったけれど、39から40になる時にぴたっ、と読まなくなってしまいました。
39を過ぎても人生ってまだあったんだ。。。とココロから驚き理解したときに治る、ハマった時に病が深ければ深いほど「抜けた」ときにはケロッとしてしまう。。。のも「太宰病」の非常~に興味深く特殊なところです。



しかし、というかだからこそ、永遠の青春文学で在りつづけ読まれつづけるんですよネ。もし我がココロの大宰ベスト5、を選ぶなら


善蔵を思う
皮膚と心
きりぎりす
津軽
斜陽
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あと『お伽草子』『東京八景』も大好き。『メリイクリスマス』も忘れ難い。。。ってヤッパ好きなんじゃん!

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最近『早春スケッチブック』のDVDボックスというものが在ることを知り↑ショックを受けております、
永年シナリオを読んで反芻しながら泣いたり感動したりしていたのに、映像でもう一度
観ることができるなんて!
でもフクザツ、欲しいような欲しくないような。。。記憶のなかで作り上げた
映像と違ってたらどうしよう、ナンテ、こういうのを要らぬ心配、と云うのですよネ(笑)。

2016年4月13日 (水)

最も美(かな)しい曲。




『ピアノ協奏曲第21番K.467』の第二楽章・アンダンテを練習しています。いままで出逢った最も美しい曲。


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このF-DurからC-Durに転調するところ、この6小節があったら何も要らない。アマデさんの描いたアルペジオのなかに溶けてしまいたい。波紋がどこまでもどこまでもひろがって、水は空の色を映して虹のような、真珠のような色に染まってゆく。。永遠にここに居たいと思う。


ばら色の雲のうえでモーツァルトと連弾することが出来るなら他に何も望まない。。。と言ったフリードリヒ・グルダさんの気持ちが超・超ワカル。


ブルーノ・ワルターさんも「モーツァルトの音楽がこんなにも自分を浄福で満たしてくれることを、若い頃は全く理解していなかった。。。」
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グルダさんも「若い時はバッハとベートーヴェンが最も大事で、モーツァルトは“演奏会に遅れて来た人が席に着くまで演奏する音楽”のように思っていた(←ヒドイ)。年を取れば取るほど自分の間違いに気づいた」。。。皆んな打ち合わせしたかのように同じことを言う。


こんな凄い人たちと並べては厚かまし過ぎるけど、私も49になるまで「モーツァルトはたしかに凄いけど、軽やかでポップ過ぎて、やっぱりバッハ師匠の方が凄い!」と思っていた。

 

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二人を“比べる”ことのあまりの愚かさに気づいていなかったし、その軽やかさや親しみやすさがどんなに深く、どんなに巨きなものから発しているか、にまったく気づいていなかった。

 

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そしてゲエテはこう言ったそうだ、


はっきり言って了えば、悪魔が人間どもをからかう為に発明した音楽である。」


さすが文豪。。。ワカッテルネ~!!

 

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