『あたらしい愛の詩』
という作品を思い出してみると、とくに歌詞、リリックの面で進歩したアルバムであり、
曲だナーと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=0qj3fG_0L7Q&feature=emb_logo
歌詞とは本当のことを書くものだ、ってことに目覚めたというのか、
心の中心にあることって何か、を必死に、探しに探しまくって書いたという意味で、
誰かの真似じゃない、自分のリリックってものが書けるようになった。。。
少なくとも目指すようになった大きなキッカケになったのじゃ無いか?と思うのです。
しかし私生活上は大変でした。音楽をやる、ってことはある意味わがままなことで、
自由になるってことは裏を返せば孤独になるってこと。
まぁ、こんな感じでやって来たしこれからもきっと大丈夫でしょ❤️
。。。っていうことがまったく通用しない場所に来ちゃったヨ、どうしよう、
と思って愕然としました(笑)。
何だったんだろうナー、あの時期というのは。
まさに魔が差す、と言うのか、今まで歩いて来た道から外れてしまう、
っていう恐怖感がありました。
聖書的に(Biblicalに)言えば、
サタンに魅入られている、という状態ですネ。
音楽には常にその危険性がある、気をつけていないと
自分を見失ってしまう独特の怖さがある。。。
経験上本当にそう思います。
ちょっと、と言うか非常〜に唐突に聞こえるかと思うのですが、
サタンはもともと妙なる音楽を奏でる美しい天使だったのですネ。
主が美しい自分よりも人間の方を愛していることに嫉妬して、
何とかして主と人間を引き離そうとする堕天使に、
サタンになって、主が創造したこの世界を、自分の支配下に置こうとするようになった。
。。。ものすごくかいつまんで言うとそういうことになるのですが、
音楽をやろうとする者は常にサタンに狙われているとも言える。
これは御伽噺のような神話のような、ホントの話です。
この曲の
愛されていることに甘えながら生きてきた、
愛することよりも自分だけが大事だった、
ってまさに私のことで、
やっぱり女は愛されてるのが幸せ❤️的な価値観が根強く、
本当に根強くあったわけなんですネ。
ところが自分の道だの自分の自由だの、
自分の音楽だの言っていたらこれはもう、
あらゆる権威にも私的関係にも、
嫌われこそすれ(笑)愛される、ってこととはまったくの真逆の世界に来ちゃうわけです。
もう不安いがいの何者でも無いし、恐いなんてものじゃありませんでした。
しかし自分、あんなふうに道を外れて(外して)
よく今までシレッと生きてるな、
よっぽど生命力が強くて図々しいんだナ、と思うことがあります。
でも。。。逆のことを言うみたいだけれど、
自分の力に気づく、って大事なことです❗️
この年になって尚更そう思います。
それは自分を傷つけもするけれど、
無条件に絶対的に護ってくれる力、でもある。。。
その力をどんなふうに生かすか、って、
一生のテーマでもあると思うのです。
思えばクリスチャンになることも、この時既に決まっていたのかも知れません。
あの時(1999年)いらい、祈る、ということが迷信や暗示の類じゃ無く、
切実に身近になった、というのでしょうか。
ちょうど20年後の2019年に何故か聖書を読了して、
その世界観に照らすと、
すべてがクリアに視えるような気がしました。
(あ、1999年のさらに20年前、1979年はアメリカに居た。。。
1999年はLAで『あたらしい愛の詩』を録っていました。
何だか不思議な巡り合わせ?。。。)
主が創ってくださった“自分”っていう被造物は、
絶対に愛されてるし護られてるし導かれてる。。。
そう心から信じられるようになったのですネ。だって、
どうか守ってください、
力を与えてください、
孤独に負けないように、
自由に負けないように。
って、今では毎日捧げる主へのお祈りの言葉、なんですもん❤️。
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