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2017年11月14日 (火)

近松浄瑠璃初体験。

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先日、国立劇場に文楽「冥途の飛脚」を観に行ってきました。


近松の作品は歌舞伎でも芝居でもなく人形浄瑠璃で観なければだめ、という先人の言葉に従って、近松浄瑠璃初体験。美しい、本当に美しい世界に言葉を失ってしまいました。


自らの作劇術を「虚でもなく実でもなし」と語ったという近松。義太夫と三味線で語られる「物語」と、物語を演じる「人形」、人形を遣う「遣い手」という重層的な構造のうえに成り立つ世界。


あらゆる受動と能動が交錯するその世界の香気と妖気に、観るものはいつしか釘付けになってしまうのです。


飛脚屋の忠兵衛が見世女郎の梅川を請け出すために、公用のお金の「封印切り」をしてしまう場面はことに有名です。自分のために罪を犯した忠兵衛に「この世で添える限り」、

つまり死の瞬間まで寄り添おうとする梅川、忠兵衛の故郷の新口村に逃れてゆくふたり、早晩捕えられることが解っている恋人たちに降りかかる真っ白な雪。。。



打算を駆使して「合理的に生きる」のが所謂「利口な処世」なのだとしたら、恋に命を、死を懸ける近松の主人公たちはそこから何と遠く隔たっていることか。

その遠さを、隔たりを人間の愚かさではなく尊厳として、無上の美しさとして謳った近松は、劇作家であるより前にひとりの詩人であったのだと思います。



人形浄瑠璃で観なければだめ、というのは、近松の「詩」の本質がそこに凝縮されており、またそこでしか完全に表現され得ないという意味であったのか!と、

言葉の中身を痛いほど実感した気がしたのでした。


しかし「冥途の飛脚」って。。。何つぅかっけェタイトルなのでしょう。その言語感覚のシャープさとイマジネーションの鮮やかさは現代に余裕で通用するどころか、

この人の視線、ヴィジョンというものは千年先を疾走(はし)っていた、と鳥肌が立つような思いがするのです。

(去年書いてアップするのを忘れていた記事↑なのですが、あ、近松忌1週間前だ!

と気がついてアップしました。なんかこう近松の日本語が在る限り、日本って国は大丈夫なんじゃないかって気がします。)

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