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ーぼくは君の髪に赤いバラをさした
君の涙がぼくの指を傷つけたから、
傷つけたから。
(『夜明け前』より。)
樋口康雄さんの音楽の、まだ入り口に立ったのに過ぎないことを識って呆然としてしまう!
あれ以来1日の3分の2は、どうしてこんなに心を奪われ魅了されてしまうのか考えずにいられない、という感じだったのに。。。まるで(勝手に)冒険に乗り出すような不安とワクワク感でいっぱいになる。
(アマデさんの『21番』のように、永遠にこの音の中に居たくなってしまう。甘やかで幻想的で、触れようとすると遠去かる。掴もうとすると逃げてしまう。。。
音楽に魅了される時って、共感とか感動なんて薄ボンヤリとしたことはとても言っていられなくなる、まさに「逆上」って言葉がぴったりだ!)
昨日偶然聴いた樋口康雄(ピコ)さんの『夜明け前』という曲があまりに素敵過ぎてずーっと聴いていました。触ったらこわれそうでじっと視ているしかないような、でもずっと視ていたいような音楽、童話か神話の世界のよう。。。
https://www.youtube.com/watch?v=3fGzLDzGKpA&index=2&list=PLKWqwTNVCSTr_PinF87EqTLcr3-PQ9nll
ちょっとティム・バックリィの繊細さと透明感を想わせる、でもあんなに切迫していなくて、安らかで美しい童心のようなものがあって。。。
サウンドもメロディも歌も歌詞もすべてが夢のように素敵。
日本画家の堀文子先生の「きれいネ」とか「美しい」なんてものじゃ無く、その対象に「逆上」しなければ絵なんて描けない、という言葉を想い出しました。
音楽に「逆上する」ってこのこと、まだ胸がドキドキしています。あぁ、アルバムを聴かなくっちゃ!!
1月にお話していた、
全曲の調性がD=二長調縛り、の演奏会(←D=ニ長調の調性は宗教音楽で“復活”の意味があるところから、オリジナルからキーが“D”の曲だけを選んで全曲演奏する、というスズキがその場で思いついた企画。)、
覚えていらっしゃるでしょうか??
あれからD=二長調の曲を 数えてみたらちょうど21曲ありました。なんだか自分の誕生日みたい。誕生日=8月21日=生誕51年!までのあいだに、「連載モノ」のように動画で楽しんでいただく、というのも面白いかナ??などと思いました。
ある時は2曲、またある時は1曲、興が乗ったら一気に4曲、スズキ宅のピアノやチェンバロ、ウーリッツァー、足踏みオルガン(そういうものはあるのです、パソコンとかスマホが無いだけで(笑)。。。)を使い、
あるいは心惹かれる楽器のあるどこかに出張して、
わたくし最近、着物の着付けを勉強していまして。。。曲からイメージした色や雰囲気の着物で季節感。。。なども醸し出し、
21曲を無事やり終えたら、まとめてライブでいっきに実演する!というのも、長~い予告編のようで楽しいかナ?
その時にはきっとまた違った音楽になると思うから。 。。などと(勝手に)思ったりしております。
そのための準備が出来しだい、すぐにお知らせいたしますネ。 どうかちょとお待ちくださいませ。。。!
『ピアノ協奏曲第21番K.467』の第二楽章・アンダンテを練習しています。いままで出逢った最も美しい曲。
このF-DurからC-Durに転調するところ、この6小節があったら何も要らない。アマデさんの描いたアルペジオのなかに溶けてしまいたい。波紋がどこまでもどこまでもひろがって、水は空の色を映して虹のような、真珠のような色に染まってゆく。。永遠にここに居たいと思う。
ばら色の雲のうえでモーツァルトと連弾することが出来るなら他に何も望まない。。。と言ったフリードリヒ・グルダさんの気持ちが超・超ワカル。
ブルーノ・ワルターさんも「モーツァルトの音楽がこんなにも自分を浄福で満たしてくれることを、若い頃は全く理解していなかった。。。」
グルダさんも「若い時はバッハとベートーヴェンが最も大事で、モーツァルトは“演奏会に遅れて来た人が席に着くまで演奏する音楽”のように思っていた(←ヒドイ)。年を取れば取るほど自分の間違いに気づいた」。。。皆んな打ち合わせしたかのように同じことを言う。
こんな凄い人たちと並べては厚かまし過ぎるけど、私も49になるまで「モーツァルトはたしかに凄いけど、軽やかでポップ過ぎて、やっぱりバッハ師匠の方が凄い!」と思っていた。
二人を“比べる”ことのあまりの愚かさに気づいていなかったし、その軽やかさや親しみやすさがどんなに深く、どんなに巨きなものから発しているか、にまったく気づいていなかった。
そしてゲエテはこう言ったそうだ、
「はっきり言って了えば、悪魔が人間どもをからかう為に発明した音楽である。」
さすが文豪。。。ワカッテルネ~!!
『ピアノ・ソナタ第11番K.331』のヴァリエーションⅥ、四拍子になるところをどうしても曲のモチーフにしたい。絶対にあの曲しか考えられない。
でもA-Durで書かれている曲をC-Durに移調しちゃうってどうなの?引用だけでもおこがましいかもしれないのに、調性まで変えたらアマデさんは怒るだろうか。。。アマデさんに対する冒涜になっちゃうんだろうか。。。いや、そんなことない!でも。。。
昨年の秋のある日、そんなふうに葛藤しながら録音の打ち合わせに向かった。最寄り駅に早めに着いて、まだ20分ほど余裕があったので何気なく入った本屋さんで流れていたのは
『ピアノ・ソナタ第11番K.331』
だった!!
それも本屋さんに足を踏み入れた瞬間、あの冒頭の優しい旋律が聴こえてきて曲がはじまった。。。アマデさんが応援してくれている!!
この曲じたいは超・有名だから何処で流れていたって何の不思議もないけれど、初めて降りた駅の初めて入った本屋さんでこのタイミングってあり得なくない??
「モチーフでも何でも使ってイイヨ、頑張れ!行け!」
って言ってくれてるみたい。。。
優しいんだァ。超・天才のクセに無邪気で、ドキーッ!とするくらい無防備で、作品は自分のもんだから使うな!とか一音・一語でも変えるなら断りを入れろ!とか云う考えがほんのこれっぽっちも無いんだ、あんなに凄い人なのに。
あ。私はそういう人を知っている。夢でじゃなくて確かにこの目で見て、逢って、たくさんのことを教えてもらったーー
私はその人を知っている。
ピアノが美しく鳴るってことは恐い、美しくないものを隠す場所が無いってことだから。
と、ベーゼンドルファーを久しぶりに弾いて感じました。高音から低音までのダイナミックさと繊細さ、本当にうっとりする響き。ピアノの響き、ピアノの鳴りって何だろう、とこんなに考えたことはなかったです。やはりマイクロフォン無しの演奏会をしたことが、音への「違う扉」を開けるきっかけになったという感じ(まだ開けてはいないですネ!違う扉の存在を知った、存在に気がついた。。。と言うのが近いのかも)。
今まで録音では歌を録るためのマイクロフォンがあって、いくらでも音量を上げて聴けるヘッドフォンがあって、ライブではPAの方が音質を作ってくれてはじめて成立していたんだなァ。。と思います。
無くても出来るしあっても出来る、のが良いと思うのです。きっと何かが、捉え方なのか歌いかたなのか演奏の仕方なのか全部なのかわからないけれど、見えないところが変わってくると思うから(見えないところに蓄えられたものが実は大事なんじゃないか?とスズキ50、にして思ったりします)。
今まで音楽をやっていて恐いと思ったことが無かった、いま初めて恐い、と思います(同時に何かを掴みかけているような気も。。。しんそこ恐い、と感じるのって何だか“生きてる”感じがする)。
感じたことをそのまま書いたのでとりとめがなくてゴメンナサイ。明日は大瀧さんの曲を歌うので気を引き締めて頑張ろうと思います!
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