しょうこのリスニング・ダイアリー。
W.A.モーツァルト
『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』
ダメだ。。『ピアノ協奏曲第21番』の第2楽章、さわりのところを弾いてみたら本当に腰が抜ける。聴いてる時も気を失いそうになるけどじっさいに弾いたらさらにヤバい。行ったきり帰って来れない。。。。美しい。
「人生があと3日だったら何をしたいか、で自分の優先順位を決めろ」、と今日読んだ本に書いてあったのでつらつらと考えてみたが、『グラン・パルティータ』の第三楽章と『ピアノ協奏曲第21番』の第二楽章を大音量で聴いていたいということしか思い浮かばない。。。もっと他に無いの?!自分にいくら問いかけても。。。無い。
もしも自分に音楽の才能ってものが在るとして、それは「演る」方より圧倒的に「聴く」方のそれだ、私はミュージシャンとしてよりも音楽のリスナーとして非常にエクセレント!と、実もフタも無い事実を知らされた。嬉しいんだか哀しいんだかわからないが楽しいのは間違い無い。アマデさん恐るべし。
演奏はクリーヴランド管弦楽団/ジョージ・セル指揮/ロベール・カザドシュ(ピアノ)。
前奏の弦がまるで、打ち寄せる波みたいだ。ここは一体どこなんだろうと思う。ほんの五秒でこの世ならぬ場所に連れて行かれる。。。
と思ったら! 別のオーケストラで聴いてみたらこれが全く連れて行かれない(涙)。ここは私の部屋、見慣れたステレオとピンクのヘッドフォン、目の前にはコーヒーと白ワイン。。。ってそんなことはどうでも良い、この違いはいったい何だ?
アマデさんの音楽はあまりに優美で心地好いために、そのまんま優美に心地好く演奏しちゃうとホント、「学校の音楽の時間」を思わせるムードが漂う。同じスコアからこうも違う音楽が生まれるものか。これがクラシックの奥の深さというものなのだろうか。
ピアノは尊敬するリリー(・クラウス)女王だというのに、リリー女王とオーケストラの息もいまいち合っていない気がする。。。あぁ!
ジョージ・セルとロベール・カザドシュの解釈にあってこの演奏に無いものは何か、考えるのはきっと勉強になる。何故「連れて行かれる」と感じるのか。音色やテンポなのか、録音状態なのか、根本的な曲の解釈なのか。。。
足下にひたひたと打ち寄せる波、真珠いろの空には微かな雲がたなびいて、まるで生まれる前に交わした永遠の約束のように思える。。。演奏と、
音楽の時間に椅子におとなしく座らされて、時間が来るまでがまんして「クラシック鑑賞」させられてる気分。。。になる演奏と、
何が違うのだかわらないがとにかく違う。寸分たがわぬ同じスコアだと云うのに。。。これは好き嫌いをヌキにしてとことん検討してみるべきかもしれない。
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