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2016年2月

2016年2月26日 (金)

わ、わかった。

Piano1

わかった。クラシックを練習する、ひとつの曲を完成させるってことは、いちばんスコアに相応しくかつ自分らしい弾きかたはどれかが見つかるまで探すこと、それが出来るためのタッチを身体に教え込むこと、それを積み上げてひとつの「構造」をつくることなんだ。始めから終わりまで譜面通り弾けること、じゃなかったんだ。。。

Syokopiano1


ということがやっと見えてきた!それだけでも進歩だネ、と自分をホメる。アマデさん有り難う。あなたへの想い無しで誰が(人前で弾くわけでもないのに)こんな馬鹿みたいに練習しますかってンだ。惚れるってコワイ。そして無敵。

2016年2月25日 (木)

微調整。

曲が出来た。作曲をはじめた時のように英語にメロディをつける。日本語で書くのも好きなんだけど、英語のリズムはまた別のメロディを呼んだりする。歌いながら考えて全部出来たらピアノで何となく弾いてみて、手ごたえがあったらコードを微調整してゆく。この微調整の作業があんがい楽しい。いつも同じ手順だけれど飽きない。やってるときは夢中になる。

2016年2月24日 (水)

ア・ツイスト・オブ・フェイト。

その日(神奈川県民ホールにスティーヴィー・ワンダーを観にいった日)自分が着てた服をナゼか覚えてる。真っ赤なGジャンに黒のスリム。今思えばジョーン・ジェットかよ?って組み合わせ。バンドやってドラムをやって、いっぱしのロック少女であったのだナと思う。


何故それが「ニュー・アコースティック系のシンガー&ソングライター」に。。。このへんのツイスト・オブ・フェイトは自分でも謎。ロック・バンドの「コーラスもやってたまにリード・ヴォーカルもやるドラマー」になるか、アーティストのバッキング・ミュージシャンになって時々曲を提供したりする、というのがいちばん自然な道の筈だった。


何であろうとフロントに立って「歌」を歌った瞬間「歌手」=「エンタメ界」で何者かにならなければならない!!という決まりと言うか不文律みたいなものがあって、それ自体は間違いでも何でも無い至極当然のことと思う。


しかしそれが自分に「向いてる」か「向いてない」かはまた全然別の話だ。向いていないということは本質的な欲望を燃やせないということだから、やっていてもあまり意味が無い。と言うか向いていないことは(人生的に)絶対ヤメた方が良い。


良い/悪いは置いといて人生において「選べる」部分はほんのちょっと、後は「自分で決める」というより「音楽(でも運命でも必然でもなんでも良い)に決めてもらっている」と感じる所以なのデス。

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1982年の7月より熱い9月。

生涯の宝。。。と言えば'82年に神奈川県民ホールで観たスティーヴィー・ワンダーも凄かった。


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バンドに4人のホーン・セクション(『サー・デューク』めちゃめちゃ格好良かった(涙)!!)と3人のコーラス隊をしたがえた『ホッター・ザン・ジュライ』ツアーでの来日、まだ『パート・タイム・ラヴァー』等のメガヒットは生まれていなかった(だから良かった、ナンチャッテ)。


コンサートのラストはアルバムのラストと同じ『ハッピー・バースデイ』。まるでニューオーリンズのマーチング・バンドみたいに賑やかに歌いながら、行進しながらバンドがステージから去っていって、


投げキッスと共にスティーヴィーの姿が消えても、客電が点いてもそれでも観客のハッピー・バースデイ、ハッピー・バースデイ。。。の大合唱は鳴りやまなかった。それくらい感動的なコンサートだった。

このアルバム(『ホッター・ザン・ジュライ』)が出て『ハッピー・バースデイ』を誕生日パーティーのBGMにする人が一時続出。でも黒人の視線でマーティン・ルーサー・キングの誕生日を皆で祝おう、ともに賛美しようって歌ってるんだから、その使い方はおかしいよナ~と高校生ながらギモンを感じていた。『アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー』を結婚式で流しちゃうカップルみたい。それ「別れても愛してる」って歌だから!


しかしホイットニー・ヒューストンのデビュー曲を岩国のベースのラジオで聴いた日が嘘みたいだ。デビューしたばかりの新人シンガー、と紹介されていて、歌の上手さに其処にいた全員が聴き入ってしまった。自分は変わっていないつもりでも、時は流れて止めようもない。

2016年2月19日 (金)

しょうこのリスニング・ダイアリー。

マーラー

『交響曲第9番~大地の歌』

まず最初に「ン?!」と違和感を覚えてしまった。何だか構えが大仰で、このくらいのことをこ~~の~~ぐらいに(わかりづらくてスミマセン)盛ってるような感じがしちゃう。第一楽章の途中で止めたくなったけどガマンして最後まで聴いた。

名作・傑作とされている音楽を聴いてナニも感じないと、ひょっとして自分の感性が枯れてるのか?私って間違ってる?と何回か聴いてみるのだけど「好きとか嫌いに間違ってるも正しいも無いんだナ~」結局はそこに落ち着く。なんで・どこが好きじゃないのか、を言葉にしてみるのは案外大事かもわからない。

器楽的完成度は恐らくもの凄く高いんだろう。レナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラ、所謂「歴史的名演」だ。


確かに音色はこのうえなく美しく、表現はシャープでモダン極まりない。バーンスタインは名匠・ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックを指揮したのが25歳の時、一夜にして大成功を治めたんだって(聞きかじりでスミマセン!Uさん有り難うございます!)。


師弟関係とはちょっと違うけれど、独特の切迫感とスピード感は「ブルーノ・ワルターにそっくりだなァ」なんて生意気なことを考えた。ブルーノ・ワルターがマーラーの唯一の親友だったってことにも驚いた(私の中で最強のモーツァルト『レクイエム』はブルーノ・ワルター指揮・ニューヨーク・フィルハーモニックの『レクイエム』なのです。


カール・ベーム指揮/ウィーン・フィルも凄いけど、ブルーノ・ワルター/ニューヨーク・フィルの演奏の、重厚な低音感とシャープさが共存してるとこがスキ!)。


マーラーはとても変わった人で「人間関係に極めて円滑を欠き、その作品は悪意を持って迎えられた」という意味のことが書いてあるけどそうなのか。。。今でいう「コミュ障」気味な人だったのかもしれない。あまりにもあまりにも現代人らしい。


恐らく自意識が肥大し過ぎて、音楽がその影に隠れちゃったんだナ。っていうかこの人の音楽って「歌」が無い。そうだ、そこが好きじゃないんだ。


いや歌はあるんですよ、全編立派な「歌唱」が。。。でも「歌」が無い、何だか禅問答みたいだけれど。。。


奥さんも作曲家であったのに「君の作品は僕の作品だと考えてくれ」とワケのわからないことを言って筆を折らせた、というのも非常に気に食わない(大好きな方がいらしたら本当にゴメンナサイ、許して!でもホラ音楽って趣味のものだから、趣味趣味音楽だから。。。)


マーラーさん、先日聴いたブルックナーさんと自分は全く相性が合わない、ということがわかった。おふたりは師弟関係だっただけに非常に似たものを感じる。「自意識」の音楽というのか、「男性原理」の音楽と言うのか。。。一言でクラシック好き!って言ってもいろいろ幅があるもんだなァ。


私はバッハ師匠とヴォルフガング・アマデさんがとにかく大好き。「自意識」という概念がそもそも無く「音楽」だけが溢れだす。古典派ばんざい\(^-^)/。

2016年2月17日 (水)

ウオーターソテー。

Photo


マドンナのプライベート・シェフを長年務めたMAYUMIさんのお料理本がとても良かった。マクロビオティックってこういうものなのか、と凄~く勉強にもなった。


特に「ウォーターソテー」という概念は衝撃的!炒めるには油が必要だと思っていたけど、マクロビオティックでは「水で炒める」。


フライパンに大さじ3~4のお水を入れて火にかけて、泡が立ったら野菜(本のレシピではキャベツと薄切りのかぼちゃ)を入れて、しばらく炒めてフタをする。


味つけはお塩だけ。野菜がとても甘く感じる。スチームド・ベジタブル(蒸し器で野菜を蒸してレモンと塩でいただく。栄養素がこわれてしまわないように、蒸す時間は必ず5分以内!)もとても美味しい。


この本を読んでから牛乳を豆乳に変えたり、玄米もちやテンペやキヌア。。。ヘルシーな食材のことも初めて知って使うようになった。



あ~んまり食にストイックになり過ぎるのも楽しみがなくなっちゃうみたいでアレだけど、MAYUMIさんが書いているように「すべてはバランス。お肉がいけないのではなく、お肉を摂ったらしばらくは野菜中心にしてみる。油っこいものを摂ったら油を控えてみる。。。」


本当にそうだナと思う。「口から入るものは身体を直撃する」ってどこかで読んだけれどこれも本当にそう。


気をつけつつも神経質になり過ぎず、毎日を楽しんで料理したり食べたり出来たら良いナと思う。生きる基本だもんネ!

2016年2月16日 (火)

「やらない」という場所から

オノ・ヨーコ、秋吉敏子、石牟礼道子、堀文子、4人の女性のドキュメンタリーを相次いで観て思った。


80代の、自分のやることをやってきた女性は本当に素敵だ(堀文子先生は90代)。自分というものから逃げなかった女性と云うべきか。











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2014年秋に観たジュリエット・グレコもめちゃめちゃ素敵だった。ジャック・ブレルの曲だけで作ったアルバムの公演、黒衣のグレコの向こうにブレルが視える気がした。いや、グレコはブレルに「なっていた」。性別も時間も、生死さえ超えて。


女は80代。なんかわからないけどヤル気出て来た。ヤル気は文字通り何かをヤル気も、何かをヤラナイ気も何かを捨てる気も含んでいる。


私に大切なことを教えてくれた人が言っていた、何かを「やる」という場所からでは無く「やらない」という場所から考えてみるんだ、と。

今・日・は

今・日・は、


今日はブルー・ヴァレンタインデイ。

だって、あなたへのチョコレート、

渡せそうもないからサ。


ハートのチョコ、

リボンかけて、逢いに行けたら。


そんなことをかんがえたら、


ゆううつダ。



たとえほかの男の人が喜んでくれても、


あなたが笑ってくれなきゃ。。。うれしくないンだ。


ブルー・ヴァレンタインデイ、


今日は、


一日中、


ゆううつダ。

2016年2月13日 (土)

ロックンロール・IS HERE TO STAY...?




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'79年に買って今でも持ってるクイーンの写真集が格好良すぎる。あぁこの時代、洋楽ロックってものが日本の若者文化の中で眩ゆいばかりに輝いていたねェ。


そういうドメスティックなことを抜きにしてもクイーンの演奏は凄かったねェ、クイーンってオペラみたいなクラシックみたいな上品なバンドじゃなくて生粋のロックンロールのバンドなんだ、って思い知らされたねェ。


あれからリアルなロックンロールのビートを根底に感じるバンドに滅多にお目にかかったことが無い(エレキ・ギターとドラムとエレキ・ベースでフォークやポップを演ってロック、と言ってるのがいちばん多いパターン。)


ロックとロックンロールは似て非なるものだ、恋愛と愛がそうであるように!ロックンロールは徹頭徹尾「人生の当事者」のための音楽。痛みや悦びをリアルに感じる人間が今日を生き延びる為に在る。


有名なウェンブリー・スタジアムの映像で彼等が『トゥッティ・フルッティ』のカバーをしてるのは、だから凄く凄く象徴的。自分たちのルーツを誇らしく表明することが、これ以上ない先人への敬意の表現になっている。。。


音楽って、ロックンロールの魂(ソウル)が継承されるってこういうことなんだナ~!!と心から、心から痺れまくった。クイーンの'80年の武道館と'82年の西武球場に行けてヨカッタ。生涯の宝だ。



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演奏が上手い、と一言で言うけれどそれは物凄く大事なこと、考えるべきことだとあらためて思う。クイーン好きの友達のお姉ちゃんがくれた'75年の写真集のロジャー(・テイラー)の髪型を絶対真似したい。あたし髪、黒いけどメゲないゾ。

2016年2月 8日 (月)

「ーけれどもわたくしは、自己主張や、自己表現ではない絵を描きたい、気に入った植物や美しいと思う風景があれば、ただそれに近づくためだけに絵を描きたいと思うようになったのです。」


堀文子先生の言葉に心底痺れる。本当にそう思う。自己表現なんてど~だって良い。ただ音楽そのものに近づきたい。



「ー素晴らしい仕事をしてきた大先輩の為にもよ、世の中動かしてんのは少数派の最高の奴等だよ、カンチガイすんなこの野郎、大先輩の巨匠たちの為にも俺たちザコは、ザコは頑張んなきゃいけないんだよ、ザコが100パーセント出しきったって巨匠の1パーセントにも及ばない、だからってやらずにはいられね~だろ!憧れてんだよ!!やらずにはいられねェだろう!!」

(高橋敏幸『人生への挑戦』より抜粋。)


ーその通り過ぎて涙が出るー!憧れてんだよ!やらずにはいられねぇ!!


表現は違えど、私には堀文子先生も高橋敏幸さんも本質的に同じことを言っているように思えてならない。

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音楽に決めてもらう。

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今ピアノを練習する時間が1日3時間くらい。だんだん良くはなってるけどこれじゃァ足りないナ、と思う。


『ピアノ・ソナタ第11番K.331』最後まで完走したけれど、譜面をもっと深く読めるようにならないといけない、その上でどう表現するか、したいのか。それが指に反映されるまでかなりまとまった時間がかかる。


。。。ってなると朝方にも夜間にも練習したくなる。一日中ふっと思いついた時に弾けるのがいちばんだ。1番から17番まで全部!なんて無謀なことは言わないけども、大好きな5番K.283や16番k.570も弾けるようになりたい。



迷ったり煮詰まったりした時はちょと外を歩いて、空や雲や植物からアイディアをもらって来れるのが良い。



それにはち~っちゃくても一軒家、しかも自然の中に建ってるのが何と言っても望ましい。


よ~し、三年以内に引っ越すゾ!ど・こ・に・しようかな。


考えてみると自分で何かを決めるってよりは常に音楽に決めてもらってるだけのような気がする。意志の力とかポジティブ・シンキング(死語?)とかには見放されてるけど私にはそれが合っている。



流される、んじゃなくて流れるまま、にしておくのが良い。そうすれば勝手になんとかどうにかなってゆく。ただヘンなことをすると流れが止まる。ヘンなことって何かって云うと「自分に合っていないこと」。

しょうこのリスニング・ダイアリー。

W・A・モーツァルト
『ピアノ・ソナタ(コンプリート)』

リリー・クラウス/ピアノ


モーツァルトのピアノ・ソナタ第1番K.279から第17番K.576までをすべて集めた作品集。1956年モノラル録音。



リリー女王はソロで聴くに限る。「清麗典雅」とはリリー女王の弾くモーツァルトのためにある言葉だ。名前のとおり純白の百合のよう。美し過ぎて時間を忘れる(恥ずかしながら11番K.331を練習中の身として、少しでもこの美しさに届くよう頑張るのみ、なのダ)。


しかし。。。オーケストラの中に入るとこの透明な流れが、水のような淀みのない自由さが薄れてしまうように聴こえる。何故だろう?


リリー女王のテンポ感は独特で、決してきっちり正確でない。非常に主観的である。だから聴き手はリリー女王の提示する時間の波に乗ってどこまでも行くことが出来る。


アマデさんのスコアはテンポの正確さよりもとにかく「歌」を求めている。音楽の中に在る歌を解き放つことにかけて、リリー女王はまさに(自身も名言しているように)モーツァルトに選ばれた人だと言っていい。


そのリリー女王がオーケストラの中で精彩を欠くとしたら、それはやはり指揮者の役不足としか思えない。アマデさんの音楽の「歌」を理解していないか、解釈し切れていないんじゃないだろうか。



アマデさんの音楽の天使が出現しないということは、アマデさんの音楽の悪魔も出現しないということだ。だから「学校の音楽の時間」になってしまう。


両方を出現させるには音楽に「歌」を歌わせなければならない。「歌」を自由に飛翔させなければならない。ジョージ・セル/ロベール・カザドシュにあってこの演奏にないものはそれだ。


リリー女王なんでこの指揮者と録音しようと思ったのかナ~。何か大人の事情でもあったのか?たまたまの巡り合わせなのか??こう言っちゃナンだけど音楽性も実力もリリー女王に釣り合っていない。謎は深まるばかりである。



しかし黙って聞いてりゃあたしも好き勝手なことをほざくよネ。でも聴くだけ聴いて言いたいこと言えるのがリスナーの特権だモン!まァ良しとしよう。

2016年2月 5日 (金)

しょうこのリスニング・ダイアリー。

W.A.モーツァルト

『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』

ダメだ。。『ピアノ協奏曲第21番』の第2楽章、さわりのところを弾いてみたら本当に腰が抜ける。聴いてる時も気を失いそうになるけどじっさいに弾いたらさらにヤバい。行ったきり帰って来れない。。。。美しい。

 

「人生があと3日だったら何をしたいか、で自分の優先順位を決めろ」、と今日読んだ本に書いてあったのでつらつらと考えてみたが、『グラン・パルティータ』の第三楽章と『ピアノ協奏曲第21番』の第二楽章を大音量で聴いていたいということしか思い浮かばない。。。もっと他に無いの?!自分にいくら問いかけても。。。無い。

 

もしも自分に音楽の才能ってものが在るとして、それは「演る」方より圧倒的に「聴く」方のそれだ、私はミュージシャンとしてよりも音楽のリスナーとして非常にエクセレント!と、実もフタも無い事実を知らされた。嬉しいんだか哀しいんだかわからないが楽しいのは間違い無い。アマデさん恐るべし。

 

演奏はクリーヴランド管弦楽団/ジョージ・セル指揮/ロベール・カザドシュ(ピアノ)。

前奏の弦がまるで、打ち寄せる波みたいだ。ここは一体どこなんだろうと思う。ほんの五秒でこの世ならぬ場所に連れて行かれる。。。

と思ったら! 別のオーケストラで聴いてみたらこれが全く連れて行かれない(涙)。ここは私の部屋、見慣れたステレオとピンクのヘッドフォン、目の前にはコーヒーと白ワイン。。。ってそんなことはどうでも良い、この違いはいったい何だ?

アマデさんの音楽はあまりに優美で心地好いために、そのまんま優美に心地好く演奏しちゃうとホント、「学校の音楽の時間」を思わせるムードが漂う。同じスコアからこうも違う音楽が生まれるものか。これがクラシックの奥の深さというものなのだろうか。

 

ピアノは尊敬するリリー(・クラウス)女王だというのに、リリー女王とオーケストラの息もいまいち合っていない気がする。。。あぁ!

ジョージ・セルとロベール・カザドシュの解釈にあってこの演奏に無いものは何か、考えるのはきっと勉強になる。何故「連れて行かれる」と感じるのか。音色やテンポなのか、録音状態なのか、根本的な曲の解釈なのか。。。

足下にひたひたと打ち寄せる波、真珠いろの空には微かな雲がたなびいて、まるで生まれる前に交わした永遠の約束のように思える。。。演奏と、

 

音楽の時間に椅子におとなしく座らされて、時間が来るまでがまんして「クラシック鑑賞」させられてる気分。。。になる演奏と、

何が違うのだかわらないがとにかく違う。寸分たがわぬ同じスコアだと云うのに。。。これは好き嫌いをヌキにしてとことん検討してみるべきかもしれない。

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