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2016年1月28日 (木)

『成瀬巳喜男 映画の面影』

「ーー成瀬さんと私の間には誰も立ち入ることが出来ない。成瀬さんと私にしかわからない。。。変な意味じゃなくてね。

だから成瀬さんが死んだ時、あぁ、私も終わった、私という女優が終わった、と思った」


「言い忘れたことがある。成瀬さんが死んだ時、私という女優も終わったと思った、と言ったね。それは、もう仕事にも映画界にも一切、きれいさっぱり未練がなくなった。つまり。。。殉死だね」


(斎藤明美『高峰秀子の流儀』/『高峰秀子との仕事』より。)


成瀬巳喜男監督を語る女優・高峰秀子の言葉を想い出すたび胸を衝かれる。何度も何度も反芻したので心に刻まれてしまった。


Naruse


先日の演奏会のとき川本三郎さんの著書『成瀬巳喜男 映画の面影』を贈ってくださった方がいらして、9日の夜むさぼるように読んでしまいました。今も読み返しています。どうも有り難うございます!


成瀬監督の画面は美しい。「美しいもの」を撮っていないのに美しいとはどういうことなんだろう。


デコたん(高峰秀子)が演じた役だって考えてみれば幸せな女は一人も居ない。それでも喩えようもなく気品があり美しい。


川本三郎さんが書かれているように「貧乏ギャグ」とお金の話がしょっちゅう出てくる。下町の狭い路地、淀んだ川にかかる橋。古いアパートにしもた家、何処からともなく現れるチンドン屋。


それなのに映画は独特のリズムとスピードを持ち、洒脱、と言っていいくらいに洗練されて美しい余韻を残す。どうしてなのか。


それを考えてゆくとデコたんが生涯でただひとり、殉死、という言葉を捧げた意味がハッキリと解ってくるのだ。

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