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2015年11月26日 (木)

十一月二十二日、近松忌。2

ことに『女殺油地獄』の解釈には虚を突かれる思いがした。

ーー「わたしは(放蕩の限りを尽くし、最後に油屋のお吉を殺す主人公の)与兵衛アンちゃんが一番人間らしく思え、与兵衛の目で他の人間の眺めれば、あまりのウソらしさに腹立ちさえ覚える。」

ーー「誰ひとり、与兵衛の内部から外側を見ない。だれひとり与兵衛の視線で家族を見ている者はいない。これでは与兵衛という青年に残されるのは暴力のほかないではないか。」

ーー「与兵衛をわたしが「異形」と感じるのは、この男に人間のもつ正体不明の暴力を見るからである。」

これは明らかに現代に通じるーー現代そのものの問題ではないか。家族、暴力、コミュニケーションの不在、危うい精神のバランス。何年か前に起きた若い男性による犯罪のドキュメントを並行して読んでいた私は、そのテーマの深みにぞくっとするものを感じた。近松は元禄の時代に何を視ていたのだろうか。

「天才」とはあるヴィジョンを「視てしまう」人だちだと感じる。かれらはいつの時代に何処に生まれても、時代を超えことばを越えた地下水脈のような「なにか」と響きあい通じあってしまう。

ーー「『油地獄』という「語りもの」は物語でなく、確実に「劇」を志向している。近松の浄瑠璃は「語りもの」から逸脱し、それがもついわゆる近代の「劇」が「段」構成の人形芝居に入りきらなかった。その時、もて余された“文学”が、後世の“読者”に読まれて楽しまれるのだった。

ーー「劇作家」とすれば、これは不幸である。ただ、六十代のおわりに、尚もこの種の不幸をもち得た浄瑠璃作家を、驚いて仰ぎ見る。」 (富岡多恵子『近松浄瑠璃私考』より。)

 

劇ーードラマが浄瑠璃を逸脱し文学に限りなく接近する瞬間。近松を「国文学」として「読んで」しまう現代の私は、その変幻を逆に辿って暗闇のなかで演じられた人形芝居を視たい、「ウタ」と「カタリ」の発現する瞬間に立ち逢いたい欲望を抑えられない。最早それが不可能だと解っていても。

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