彼女の誤算。
チェンバロ奏者ワンダ・ランドフスカのチェンバロ名曲集のレコードをず~っと前に買ってA面だけ聴いて、それから聴いていなかった。
昨日、B面で『トルコ行進曲』をやっているのを発見しておぉ!と思いひさびさに聴いてみたところ。。。
あらっ?
リピート、無視(ΘoΘ;)
あ、またガン無視(°д°;;)
あの~作曲者の指示しているリピートを無視するってどういう。。。
アマデさ~ん、これってアリ?!あたしはナシと思うよ。。。
あ、まただ。ど~せ小曲のオムニバスだし、トルコ行進曲って小学生でも弾く曲だからと思ってやってる感じがする。
ランドフスカは12年前、私にスピネット(小型のチェンバロ)を購入する決心をさせてくれた大事な演奏家だと思っていたから、この「リピートガン無視トルコ行進曲」はショックだった。自分がその曲を練習しているだけに。。。
練習はここまでやったら完璧ってことが無くあらゆる弾き方を試みることが出来る。上手い人の演奏を「聴く」ことは練習そのものよりも練習になったりする。しかし。。。
全体に雑だし音色に深みが無くて、あまり。。。と云うか全然良い録音じゃない。ランドフスカともあろう演奏家が何でこれを出したのか?
単独で演奏されることも多いけれど、やはり『トルコ行進曲』は『ピアノ・ソナタ第11番』の(追記:ピアノ・ソナタの原題はClavierSonata、
クラヴィア=鍵盤楽器、という広い意味だが、書かれた年代からして明らかにチェンバロ向けの曲では無い。)為に書かれたものでピアニスティックな曲であり、チェンバロには向いていない。本人も解っていて、チェンバロを親しみやすくする目的で有名曲を弾いているんだろう。
クラシカル・チェンバロを歴史の遺物、とする考え方と戦う為には大きな音量が必要だった、と彼女が言っているように、生涯を懸けてモダン・チェンバロの普及と演奏に尽力したことは大変大きな功績だと思う。私だってこの人の弾くバッハのレコードを聴いていなければ、こんなにもチェンバロに惹かれていなかったかもしれない。しかし。。。
彼女は力には力で立ち向かう、と云う非常に男性的な戦いかたをした。その無理が(例えば)この録音に現れていると云う気がしないでもない。モダン・チェンバロが体現する大きな音量、派手な外観、モダン・ピアノを思わせる「現代」らしさ。それは短期的に大きな勝利をもたらしたかもしれないが、永い時間を生き残るものではなかった。
もしも彼女が女性的な戦いかたをしていたとしたら?あくまでクラシカル・チェンバロの繊細さ、美しさを守り乍ら「攻撃をかける」なら、それはどんな方法であり得ただろうか。
マスキュリニティというものが「大きく」「広く」「新しい」ことだけを重んじるならば、私はそれに与しない。
「狭く」「深く」「変わらない」ものを重んじることで闘わず、従わずして抵抗するだろう。
「闘わないこと」と「無力であること」はイコールでは無い。抽象的な話だが小説に女性の文体というものがある様に、女の「やり方」というものがある筈だ。
珍品の『トルコ行進曲』からそんなことまで考えさせられてしまった。ずっと聴かなかった理由がわかっちゃった。悲しい。
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