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2015年10月

2015年10月31日 (土)

小林秀雄先生に訊いてみる1。

あぁ、自分で書いて違う、と思った。一度も聴いていないってのは嘘だ、現実に演奏されるのを聴いていないだけで、彼の中には完璧な、絢爛たる音楽が鳴っていたのだから。


小林秀雄先生にそのへんのことを訊いてみる。


「ーそんな事を言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。」


ホントホント、そうですね。何なんですかねこの人は。。。わたしレコード聴きながら、スコアを見乍らアマデさん!あなたって何なのーーー!とか叫びそーになるんです。



「ー僕らは、其処に、この非凡な人間にふさわしい何者も見付け出す事は出来ない。彼にとって生活の独立とは、気紛れな注文を、次から次へと凡そ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事に殆ど無抵抗に屈従し、その日暮しをする事であった。」



ホント!天才の書簡集なんて言ったらもう、どんな崇高な音楽哲学が述べられてるのかと思って期待しちゃいますよね!


ところがそんなのゼロ。ゼロって云うかマイナス。計画性ナシ。処世術ナシ。思想ナシ。それどころか思索とか思考ってものをした痕跡が全然無いんですよ!仮にも「芸術家」でそんな人一人もいないですよね。



それって逆に凄くない?と私、そこに思い当たった時鳥肌立って怖くなっちゃった、こんな無防備な人間生きていられないよって。



生活技術も全く無くてね、お金の使い方も滅茶苦茶、蓄財にも縁が無くて、世に云う「ハメツ型」なのかって云うと違うんですよね、ハメツ型って自意識が屈折するからハメツ型になるわけじゃないですか。でも御本人何~んも考えてない。屈折とか自意識とか無い。そもそも自我というものが在るようで無い。


「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露するような友は一人もいなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういう事になるか。(中略)彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはいまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己も大した事を引き出し得まいという事だ。」



本当に何度考えても怖い。あの音楽の美しさ深さ完璧さ。それはすべて、この人が本当になにもない人だったから生まれ得たものだって初めて解ったんです。



「彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞える程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細かさがある。一度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。」


わかる!まるで不断の誘惑みたいなんです。何かもうこの世ならぬ場所に否応なく拉し去られるんだけど、えもいわれず無邪気だから余計タチが悪くて。。。も~人生とかど~でも良いような気にさせられちゃうから怖いんです。生きる喜びと死への吸引、絶望と歓喜が交互に、あるいはいっしょになって襲ってくる。。。


天然と言われる人だって、もうちょっと自分ってものがあると思うんです。なにもない人なんてこの世にいない。でもこの人は「自分」を存在ごと音に乗っ取られている。

2015年10月30日 (金)

キーリエ、エレーーイゾン、エレーーーーーイィゾン!(息切れ。)

『キリエ』のアルト、やっと単独で歌っても調性を見失わなくなって来た!嬉しい。それにしても四小節歌いっぱなしとか当たり前で息がクルシイ。お腹だけじゃ間に合わない、背中にも息を溜めないとダメだ。

キーリエ、エレーーーーーーーーーーイゾンエレーーーーーーーーーーーーーイィゾン!


ラテン語ってどうやって勉強すればよいのだろう、「やさしいラテン語教室」なんてあるのかな?


ネット上に歌詞の意味は載っているしレコードを何度も聴いて真似する方法もあるけれど、もっと根本的なことを知りたい気がする。


それにしてもアマデさんはこのスコアが演奏されるのを一度も聴かずに逝ってしまったんだなぁ。


こんな、すべての人類への贈り物とも言うべきものを書いておき乍ら、書いたっ放しで自分で一度も聴いてないってどーゆーことよ、本当に本当に、これ以上無いくらい、アマデさんらしいなァ。

引っ張り過ぎでスミマセン!9/23に

助けてくださったたかこ様、もたいちゃん様、えりさま、


そしてまきこ様(ハハ。)に心からの感謝を♪。本当に有り難うございました!

Makikosyokosyuusei2

~追伸~

アンケートにもたくさん感想を書いてくださってとても嬉しかったです。ネット苦手でスマホ持ってない・自宅にパソコンあるけどつないでない(一度繋いでやっぱしヤメた)んですが、なんでもかんでも「ツールとして利用する」みたいな言説にど~しても馴染めないのです、古い人間なので。。。


言葉は気持ちを伝える「ツール」なんて時々目に(耳に)する言いかたですが本当にそうでしょうか??アンケートやお葉書に書いてくださった言葉が凄く嬉しいのは、それがツールではないからなんです。


言葉は言葉であるときはじめて想いを伝えあうことが出来る。書いてくださった言葉を読みながら心からそう感じました。本当に有り難う。

2015年10月28日 (水)

スコアを読む=心を読む。

Introitus



アマデさんの『レクイエムK.626』のスコアをすらっと、いやそれは全然無理、何とか読めるように練習しております。一番容易に読めるのは移調の無い合唱のパートと弦楽器のパート。


本当は縦に一度に読めなきゃァ全然意味がないのだけど(涙)、管楽器を「頭の中で移調し乍ら全体を読む」訓練をしてきてないので仕方無い、ちょっとずつ移調したりメモしたりして結構楽しんでおります。


序曲はラテン語の歌詞が難しい(要・勉強!)ので、言葉がシンプルな『キリエ』のソプラノ&アルトのパートを読んで歌う練習をしているのですが。。。


アルトのパートの難しさを何と言ったらよいのか!ビートルズのコーラスで云うジョージのパートと云うのでしょうか、


☆息継ぎ苦しい、って云うかどこでブレスすれば良いのかわからないくらいワンセンテンスが長い


☆ヘンなパート過ぎて単独で歌うと調性がまったくわからない

☆∴音取れない


の三重苦!ジョンとポールの間に挟まってイヤと言えないジョージのよう。。。しかしこのパートがあると全体が何て美しいのでしょう!


ソプラノを歌いながらアルトをピアノで弾くと、計算されたハーモニーとリズムの見事さにため息が出ます。あっ、アマデさんの場合計算じゃなく意図でもなかった、ことを『モーツァルトの手紙』と『モオツァルト』(小林秀雄)で知って、



たしかにこの異様な自然さは意図や計算なんかしてたら造り出すことの出来ない速さだ、とミョ~に納得してしまいました。



いつか『キリエ』や『ラクリモーサ』を一人多重のコーラスでやってみたいのです。バセット・ホルンやファゴットのパートも声に出して歌えるようになれば、全体をどんなふうにヴォイシングさせているのかがわかる。管楽器のアンサンブルの勉強にもなって一石二鳥!


凄く凄く遠回りの道だけれど、曲の骨組みを理解するには自分の肉体を通すのがいちばん早いと思うのです。あまりに畏れ多いけども、アマデさんの音像の「心に触れる」ことが出来たら超・幸せ。


う~ん、ラクリモーサのファゴットⅡのラインが変で面白い。。。アマデさんは木管楽器を自分の肉体そのもののように捉え、弦楽器は精神でありファンタジーの役割をさせているように思う。。。


そして肉声はその中間、肉体とファンタジーのはざまで言葉を発するもの。。。だけど思考では無いもの。。。そうだ、「感情」そのものなんだ!

トリステッセ・アランテ。

「ーー何故、死は最上の友なのか。死が一切の終わりである生を抜け出て、彼は、死が生を照らし出すもう一つの世界からものを言う。ここで語っているのは、もはやモオツァルトという人間ではなく、寧ろ音楽という霊ではあるまいか。

Mozartbook





自然とは何者か。何者かという様なものではない。友は、ただ在るがままに在るだけではないのか。彼の音楽は、その驚くほど直かな証明である。それは、罪業の思想に浸されぬ一種の輪廻を告げている様に見える。僕等の人生は過ぎて行く。だが、何に対して過ぎて行くと言うのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。生は、果たして生を知るであろうか。恐らくモオツァルトは正しい。彼の言う方が正しい。併し、彼が神である理由が何処にあろう。やがて、音楽の霊は、彼を食い殺すであろう。明らかな事である。」


(小林秀雄『モオツァルト』より。)

アマデさんの手紙を読んで。

あなたという自我、あなたという生理と官能、あなたという存在の最深部は「音」で出来ている。あなたには思考というものが無い。信じられている意味での「思考」を、あなたはまったくしていない。


思考は存在を、自我の混沌から守るためのものである。言葉に光を当て、それに意味を付与し整理するものでもある。あなたと来た日には思考を、自分を守るものをなにひとつ持たず裸形のままで、音の上に、音の真ん中に垂直に立ち尽くしている。

Amadesan





あなたの存在、あなたの生理と官能、あなたの自我はその最深部まで音に乗っ取られている。あなたは音、音はあなただ。思考というものはその間に余計な雑音を持ち込む。あなたはそんなものを必要としなかった。それどころか持って生まれてさえ来なかった。あなたの音がこんなにも自然に「奔流のように」流れ出るのはそのためだ。あなたの世界では命の光と死の闇が、命の闇と死の光がひとつになってポリフォニーを描く。



それは恐ろしいことだ、あまりに怖いことだ。すべての思考に見離され、最深部まで音に乗っ取られた人間がこの世で生きていられる筈が無い。あなたの35年と10ヶ月と9日間は奇跡だ。早逝(はや)過ぎたのでは無い、あなたが音に生まれ音に生きたのは、それは奇跡だ。



「神がザルツブルクに生まれさせ給うた奇跡」ー。あなたの父親はこれ以上無いほどただしい言葉であなたを表現した。ただその言葉のほんとうの中身を、理解していなかっただけである。

2015年10月22日 (木)

終わるということ。

ぷは~っと水面から顔を出せたような気分。「仕事だから」「大人だから」ナンテ柄にも無く我慢、というものをした。


無駄では無かった、気もするが後味がいいかというと悪い。その場で降りれば一番良かったのか、しかし途中まで来てそれは「大人じゃない」と引き止める自分が居た。


好きなものを好き!と言える気持ちを抱きしめてたいと以前槇原敬之さんが歌っていたけど、嫌いなものは思いっっ切り嫌いと認める気持ちも同じくらい大事なのだとわかった。


そこを曖昧にしておくからこういうことになる。「仕事だから」なんて言い訳に過ぎない。信念が足りない。


良いことも悪いことも、人間は人間=仕事を通して学ぶのだな。そういう意味ではやって良かった、これでおしまい、ってことがわかったから(いろんな意味で)!終わるということは良いことだ。

Syokodensya2終わったゼ。

Syokodensya1


私用で担当弁護士N先生と打ち合わせ。湘南新宿ライン普通に動いてて良かった(横須賀線とともに最近結構止まるのデス)。

2015年10月20日 (火)

9月23日/旧華頂宮邸3。

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鎌倉市役所都市景観課の小林彰さま、海老澤一樹さま、牧野直樹さま、都市景観課課長の芳本俊雄さま。
本当に、本当に御世話になりました。どうも有り難うございました。


この演奏会は鎌倉市の住人となって暫く経ったある日、一般公開で訪れた旧華頂宮邸の佇まいに心を奪われた私が、こんな場所でコンサートが出来たら。。。という一方的な想いから、門前払い覚悟で海老澤さんにお電話をかけ、鎌倉市役所で小林さんと海老澤さんにお目にかかったことから始まりました。


暫く時間が経ち冷静に振り返ってみると、この演奏会がなければ恐らく人前で実演をすることはなかった、と思えます。門前払いしないでくださったこと、心から感謝しております!

記念のグループ・フォトを撮れなかったのが唯一の心残りです。もしふたたび旧華頂宮邸で演奏させていただける機会がありましたらその時こそは。。。と今から(勝手に)思っております。本当に有り難うございました。

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お忙しい日々の中、お運びくださった皆さまに心から感謝致します!本当にどうも有り難うございました。次の実演は来年初夏から夏頃。。。を予定しております。


お会い出来なかった皆さま、近い未来にきっとお目にかかれること、今からワクワクと楽しみにしております。

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2015年10月10日 (土)

均一「でない」もの。

そうなのです、私はきっちり、規格どおりに作られた工業製品「でない」裏の神社の階段の凸凹や、草が生えたり角が丸くなったりしているその質感や風情を愛しているのだと再認識致しました。


生きている限り均一なんてあり得ない。音は勿論、人だってそうですよネ。デジタル・ピアノを弾くのがどうしても嫌、というところから、じょじょに平均律「でない」ものに魅かれーー平均律は聴いていると大変美しいのですが、自分が音楽を実演するのには限界があるナ。。。と感じ始めて、


試行錯誤するうちにたどり着いたチェンバロという素晴らしい楽器、そしてキルンベルガー第三調律法。。。それを教えてくださった久保田さんに心から感謝いたします!!

P・S

久保田さんが私の音楽ジャンルを「アイドル・ポップス」と言ってくださったのは衝撃でした。そうか(納得するなよ!)クラシカルでバロックなアイドル・ポップスを目指します!(50だけど。。。)

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2015年10月 8日 (木)

9月23日/旧華頂宮邸 2。

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            チェンバロ文化講座 講師 久保田彰先生(久保田チェンバロ工房)

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チェンバロの歴史や特性、キルンベルガー第三調律法と平均律のちがい。。。

ユーモアをまじえつつ大変興味深いお話をしてくださいました。

『「音階」というものを階段にたとえると、平均律は均一につくられた工業製品のような階段、キルンベルガー第三調律法をふくむ古典調律は裏の神社の階段。。。』

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あまりの絶妙な喩えに笑ってしまうスズキ。




2015年10月 6日 (火)

誘惑者。

アマデさん。。。『ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467』が美し過ぎるよ。。。『グラン・パルティータ』のアダージョに曲想がとても似ているのは偶然じゃなく、木管だけでやったことをピアノと弦を加えてやってみた、っていうふうに聴こえるのだけど違うかな?


アマデさんのオーケストレーションの、何と完璧で美しいことか。「音」が描き出す永遠の平安。永遠の平安、への止むことの無い憧れ。此の世の何処にも無い約束の場所。


アマデさんが描いた場所が美しければ美しいほど、私は音楽の罪深さを感じてしまう。美し過ぎる、ということの罪。


それは人を惑わせ、死へと吸引する悪魔のささやきに限りなく似ている。「美」と「死」が混ざりあい結び合いひとつになる場所。生身の人間がそんな場所に永く居られる筈が無い。


アマデさん。その名が暗示した通り音楽の神に魅入られ、あまりに深く愛され過ぎた罪でそこから35年で旅立ってしまったけれど、ようやく還りついた平安がどんなに美しいものなのか、その場所に還ることだけがあなたの希みであり、憧れのすべてだったことを、あなたは既に予感のように描き出していた。この曲に、この、天のものなる妙なる楽の調べのなかに。

2015年10月 5日 (月)

9月23日/旧華頂宮邸1。

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百合の花のせいで何もみえなくなる。

リリー・クラウスの弾くモーツァルトは何て夢見心地で素敵なのだろう。40年前に買ったレコードに入っていたピアノソナタ第11番の演奏がこの人のものだったことに感謝する。

何人かの有名なピアニストの11番を聴いてみたけれど、私はこの人の演奏がとにかく好き。この人が弾いているあいだ、時間の流れが違う速さになる。。。それはレコードとCDのちがいでもあるのかしら。

俳人の杉田久女の句を「清艶高雅」と評した文章を読んだことがあるけれど、リリー・クラウスの弾く11番もまさに高雅に、清らかに艶めいて私の時間を止めてしまう。純白の百合の花の香りがする。

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