小林秀雄先生に訊いてみる1。
あぁ、自分で書いて違う、と思った。一度も聴いていないってのは嘘だ、現実に演奏されるのを聴いていないだけで、彼の中には完璧な、絢爛たる音楽が鳴っていたのだから。
小林秀雄先生にそのへんのことを訊いてみる。
「ーそんな事を言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。」
ホントホント、そうですね。何なんですかねこの人は。。。わたしレコード聴きながら、スコアを見乍らアマデさん!あなたって何なのーーー!とか叫びそーになるんです。
「ー僕らは、其処に、この非凡な人間にふさわしい何者も見付け出す事は出来ない。彼にとって生活の独立とは、気紛れな注文を、次から次へと凡そ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事に殆ど無抵抗に屈従し、その日暮しをする事であった。」
ホント!天才の書簡集なんて言ったらもう、どんな崇高な音楽哲学が述べられてるのかと思って期待しちゃいますよね!
ところがそんなのゼロ。ゼロって云うかマイナス。計画性ナシ。処世術ナシ。思想ナシ。それどころか思索とか思考ってものをした痕跡が全然無いんですよ!仮にも「芸術家」でそんな人一人もいないですよね。
それって逆に凄くない?と私、そこに思い当たった時鳥肌立って怖くなっちゃった、こんな無防備な人間生きていられないよって。
生活技術も全く無くてね、お金の使い方も滅茶苦茶、蓄財にも縁が無くて、世に云う「ハメツ型」なのかって云うと違うんですよね、ハメツ型って自意識が屈折するからハメツ型になるわけじゃないですか。でも御本人何~んも考えてない。屈折とか自意識とか無い。そもそも自我というものが在るようで無い。
「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露するような友は一人もいなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういう事になるか。(中略)彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはいまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己も大した事を引き出し得まいという事だ。」
本当に何度考えても怖い。あの音楽の美しさ深さ完璧さ。それはすべて、この人が本当になにもない人だったから生まれ得たものだって初めて解ったんです。
「彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞える程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細かさがある。一度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。」
わかる!まるで不断の誘惑みたいなんです。何かもうこの世ならぬ場所に否応なく拉し去られるんだけど、えもいわれず無邪気だから余計タチが悪くて。。。も~人生とかど~でも良いような気にさせられちゃうから怖いんです。生きる喜びと死への吸引、絶望と歓喜が交互に、あるいはいっしょになって襲ってくる。。。
天然と言われる人だって、もうちょっと自分ってものがあると思うんです。なにもない人なんてこの世にいない。でもこの人は「自分」を存在ごと音に乗っ取られている。
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